更新日: 2013年1月7日
1960年に私は生まれて、今まで生きてきた。
いたずらっ子だった小学生時代
落ちこぼれだった中学生時代
レスリングに出会いスポーツが何たるかを学んだ高校時代
そして、負けることの悔しさを知り、何とか入学した大学
ここで、人生の師と出会い、パワーリフティングという競技と出会う
22歳の時に妹を自殺で亡くすという、最悪の地獄を見る事となる。
何が、死に追いやったかは、30年経った今もわからない。
この事が終生、私のトラウマとなる。
卒業し、就職し、サラリーマンとパワーリフティング競技生活の二束の草鞋を履き
25歳の時、この競技の日本記録を2度更新する。亡き妹の供養が出来たのでは!
27歳の時、団体戦チーム日本一に輝く
少年が、男に為る為の全てを教えてくれたのが前出の師なのです。
31歳の時、ある女性と出会い結婚をする。
そして、パワーリフティングを退くこととなる。
師との別れ・・・・・決して良い別れ方でなかったよな!
その年に転職する事となる。
38歳の時に、師の死を知らされた。結婚式にも出てもらえず、わだかまりを残したままの死別であった。
39歳の時に親父を白血病にて亡くすこととなる。そのとき初めて、親父の生まれ育ちを語られた、父の父(祖父)は若くして結核で亡くなり、祖母は後妻にはいった。その時、親父はそのままの姓を残され、祖母は後妻として新しい姓となった。このことが「終生孤独だった」と死の一か月前に知らされた。父は、死までの間に、仕事の引き継ぎをし(有る企業の役員をしていた)、遺言を書き、遺産の相続をすまし。自分で戒名を選び、葬式の段取りも、会社の社長と取りかわし、喪主を俺に指名した。実に見事な男の死にざまであった。実は、妹の死は、親父と御袋が悪いと思い込んで(今でも)以来、御袋とは折り合いが30年悪いのも事実。しかしこの時父を許した。
転職した会社が社名変更・親会社との合併で五回も社名が変わった。実に大変で、煩雑であったが顧客様はついてきてくれた。感謝しています。
40歳の時に、養子縁組をすることとなる。私たち夫婦は子供がどうしてもできず。
初めは、養育里親として、のちに特別養子縁組を得て、息子として育てている。
ゴミまみれのアパートで捨てられていた息子、3人いた末っ子だった。長男は、ダウン症で今も養護施設に暮らしている。二男は、有る家庭に養子としてひきとられ、今もこの家庭とは付き合いが有り、いつの日か、兄弟である事を告げなければならない。
長男のの事も気になる。今後どう支援していくべきか考えなければならない。
息子には、幼稚園卒園時に真実告知をし、私達は生みの親ではないが、お前はかけがえのない息子出る事を告げた。そして、しばらくたった時息子から「貰ってくれて有難う」と言われた時、私は号泣したのを覚えている。大人たちのエゴがこうさせた事実をしっかと受け止めた。そして、自覚を持った賢明な大人として生きる覚悟を得た。今年で、52歳になる私。色々な事が有った人生。たった一つだけ誇れることがある。それは、出会う人々に恵まれた事である。会う人、会う人が私を助け、知恵を授け、ともに戦ってくれた多くの人々。
お礼を申し上げたい。「有難うございます」
そして、私は、いつも、こう考えいています。「今日・只今見る景色より、来年の今月今夜見る私の景色はもっと素晴らしい景色が見たい、だから努力したいんだ」と自分に言い聞かせています。ジェットコースターの様な人生ですが、人の経験できないことを経験した強みが私の財産なのです。さあ、明日も素晴らしい日が来ることを祈って!